世界のファッションブランドとしても知られるKENZOのデザイナー、高田賢三さんが今年10月4日帰らぬ人となってしまいました。今年7月には、同じく世界のファッション界で活躍した、山本寛斎さんが旅立っています。

80年代には、パリコレクションなど世界の舞台で、多くのデザイナーたちががファッション界を盛り上げていました。その中には、日本人デザイナーも。日本の景気も空前の盛況の時代。海外ブランドは注目され、日本のファッション界も大きく変わりました。

80年代のモード界に功績を残し旅立ったしまった、新鋭デザイナーたちへのオマージュとして振り返ってみました。

 

ジャンニ・ヴェルサーチ Gianni Versace

1946年12月2日 – 1997年7月15日

絵画のような豪華な装飾を描くデザインで一世風靡した「ジャンニ・ヴェルサーチ」。ミラノでは、ジョルジョ・アルマーニ、ジャンフランコ・フェレと肩を並べる人気で「ミラノの3G」と呼ばれていました。ジャンニは学生のころ、建築や古代ギリシャやローマの文明に興味を抱いていましたが、母が縫製業を営んでいることもあり、26歳でミラノに渡ると、1973年イタリアの若者向けブランドのデザイナーとして就職。ブランドと共にジャンニ自身も人気を集めだしました。1978年に、自身の名前のブランドを発表し、ミラノに店をオープンします。

すると、ジャンニの奇抜で鮮やかな色彩と個性的なデザインは、瞬く間に、人気ブランドに。ジャンニのバロック調デザインは、ブランドのアイコンとして世界に知られ、食器や小物に至るまで展開し、人気を不動のものにしました。数多くの賞を受賞しています。世界にヴェルサーチのファンを持ち、エリック・クラプトンやダイアナ妃、マドンナ、エルトン・ジョン、スティングなど、多くのスターの衣装も担当。

ライバルであったアルマーニとも比較され「アルマーニの服は妻のため、ヴェルサーチは愛人のため」とユニークなイタリア人ジョークで表現されるほど、世界を魅了したブランドとなりました。彼の会社の価値は807万ドルに達し、世界中に130の店舗を有するまでの規模に成長

ファッション帝国を築いたヴェルサーチ。

30年間トップを走るヴェルサーチに、真実とは受け止められない衝撃な事件で幕を閉じることに。

ジャンニ・ヴェルサーチ暗殺

内耳がんを発症したジャンニは治療のため1995年から2年ほど休養し、フロリダの別荘で過ごしていました。がん治療を終えた半年後の1997年7月、指名手配されマイアミに逃げていた連続殺人犯アンドリュー・クナナンが、カフェでコーヒーを飲みちょうど家に帰るジャンニ・ヴェルザーに出くわし、別荘の自宅前で、ジャンニを射殺します。享年50歳。かつて帝国を築いた王者のあまりにも突然のショッキングな死にファンのみならず、世界が驚愕しました。犯人は8日後に自殺し5人を殺した最後の犠牲者がジャンニ・ヴェルサーチとなりました。

この事件は、2018年1月に『ヴェルサーチ暗殺』としてドラマ化され、9話に渡って放送されました。ジャンニ・ヴェルサーチのマイアミの別荘は、最終的に2013年、アメリカの服飾メーカーの起業する実業家、ジョセフ・ナカシュが1億ドルで購入し、2015年から4つ星ホテル「The Villa Casa Casuarina」として開業しています。

出典vmmiamibeach

 

 

 

シニア・リキエル Sonia Rykiel

1930年5月25日 – 2016年8月25日 没86歳

パリ生まれのソニア・リキエル。当時マタニティ服がなかったので自分で作ったのがきっかけでデザイナーになったんだそう。1954年にサム・リキエル氏と結婚。パリ14区に店を構え、ファッション誌ELLEにソニアのセーターが取り上げられ、店の前を歩いていたオードリーヘップバーンも、ソニアのセーター14種類を買って行ったそうです。

1968年にソニアリキエルは「ニットの女王」とも呼ばれ、事業を拡大していきました。83年にフランスから芸術文化勲章を授与し、80歳を過ぎても現役を務め、2016年パリの自宅で最期を遂げました。没86歳。その功績をたたえ、2018年に、パリの一角の通りを、ソニアリキエル通りと名づけたそうです。ブランドはそのまま運営していたものの、ソニアが亡くなると業績が悪化、破産手続きを申請、買い手がつかなかったため、2019年7月に、残念ながら50年の歴史に幕を閉じることになりました。

 

 

オッタヴィオ・ミッソーニ Ottavio Missoni

1921年2月11日—2013年3月9日 没92歳

1948年夏季オリンピックに出場したイタリアのオリンピックハードルの選手だったミッソーニ。

母テレサは、シリー諸島とロゴズニカの王女で、父ヴィットリオ・ミッソーニは船長。オッタヴィオは、ザダル、トリエステ、ミラノの街で育ちました。その後、ハードルの選手として活躍し、彼はチームメートとユニフォームを制作し1948年のオリンピック出場時に使用していました。

1953年には、妻ロジータが、ショールの編み物を得意としていたのをきっかけに、夫婦で機械ニットを使い工房を構え、イタリアでプレタポルテ(既製服)のブランドを立ち上げました。このミッソーニのニットは驚くほど軽量で、カラフルな縞模様のデザインが特徴となり、イタリアのスポーツウェアの開発に大きく貢献しました。マルチカラーのジグザグ、ストライプ、予想外の色で組み合わせたデザインは、非常に影響力がある芸術だとモード界でも取り上げられました。1970年、ミッソーニはニューヨークのブルーミングデールズに最初のブティックをオープン、1976年にはミラノに直営ブティックをオープンします。

軽量ニットという画期的な製法とアートなデザインで、モード界に新しいスタイルを生み出した「ミッソーニ」は、その後50年にわたり人々に愛され続けていました。

88歳に成っても、彼はまだ砲丸投げややり投げなどのスポーツを練習するほど活発な人だったそうです。

しかし、衝撃的な事故がー。

2013年1月4日、ミッソーニの長男でCEOを務めていたヴィットリオミッソーニとその妻、他の2名の乗客と2名の乗組員が、ベネズエラ近くのロスロケス島付近で飛行機が墜落。ミッソーニは、かけがいのない家族と数名の従業員を失ってしまします。その4ヶ月後、深い悲しみは消えぬまま、オッタヴィオ・ミッソーニも長男もとに旅立ちました。享年92歳。

 

 

 

山本寛斎

1944年2月8日 – 2020年7月21日 没76歳

娘は、女優の山本未来さん、異母兄弟に32歳年下の俳優の伊勢谷友介さんがいます。

幼少期に両親が離婚し、父方へ引き取られますが、父の育児放棄による児童相談所にあずけられた山本寛斎さん。その後父方の祖母が引き取り岐阜へ。高校では建築に興味を示すものの、横浜で洋裁教室をしていた実母と再会し、「装苑賞」と言う存在を知り応募。その後、コシノジュンコさんなどの元で働き、1971年「やまもと寛斎」を設立し、同年、日本で初となるロンドンのショーでデビュー。

1974年にパリコレクション、1979年にはニューヨークコレクションに参加し、世界各国にブティック寛斎を出店。1973年にはデビットボーイの衣装も手がけており、世界でも知られるデザイナーに。

2020年2月に急性骨髄性白血病との診断を受け治療、しかし、7月21日治療のかいなく帰らぬ人となってしまいました。享年76歳

ユニホームや高校の制服、CM、映画など多岐にわたり活躍し、数々の賞を受賞しています。

 

 

 

イブ・サンローラン Yves Saint-Laurent

1936年8月1日 – 2008年6月1日

トップデザイナーとして40年にわたりトップデザイナーとして活躍し、「モードの帝王」と呼ばれたイブ・サンローラン。

フランス領アルジェリア生まれで、子供時代にパリへ移住。17歳の時、パリ・クチュール組合学校でデザインを学びます。IWS主催のデザインコンクールに参加。ドレス部門でカクテルドレスを発表し、最優秀賞を受賞。このカクテルドレスを縫合したのは、あのユーベルド・ジバンシィでした。そして、毛皮部門の受賞者はカールラガーフェルド。

このコンクールの審査員であったヴォーグのディレクターは、友人のクリスチャン・ディオールに連絡。若いサンローランの、独創的かつ想像力に富んだデザインに、ディオールは強い感銘受けたそうです。1957年にディロールはイブのデザインを使い彼を賞賛しました。同年に、ディオールがなくなり、イヴが主任デザイナーとなると、ディオールは低迷した財政状態から脱出。新聞では、「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続きます」とまで賞賛されました。しかし、1960年しかしイヴは、アルジェリアの独立戦争で、フランス軍に徴兵されます。軍隊でいじめを受けたイブは、強度のストレスで精神障害を起こし、精神病院で治療します。

1962年に後援者で恋人のピエール・ベルジェの出資を得て、「イブ・サンローラン」を設立。カトリーヌドヌーブの映画の衣装担当をし、カトリーヌがランウェイに立つなど、上流階級に絶大な人気を得ました。香水や化粧品、バッグまで展開する企業になっていきました。

2001年にレジオンドヌール勲章コマンドゥールを受賞しますが、同年グッチグループに買収されます。翌年イヴは引退し、老後をマラケシュで過ごしていましたが、2008年ガンのため死去。イヴほどの才能を持つほどはいないとして、イブサンローランのブランドはプレタポルテのみとなり、オートクシュールは幕を閉じることになりました。

 

 

 

ユーベル・ド・ジバンシィ Hubert de Givenchy

1927年2月21日 – 2018年3月10日没91歳

友人のイヴサンローランよりも10年早い1952年に冠ブランド「ジバンシィ」を立ち上げ、その斬新なアイデアとシャープな感性で魅了し、「モードの神童」と呼ばれていました。顧客には、オードリー・ヘップバーンやギネス家、モナコ大公家のグリマルディ家、ケネディ家など上流階級のファンが多くおり、ヘップバーンは、「愛しのサブリナ」「おしゃれ泥棒」「シャレード」でもジバンシィの服を使用。有名な「ティファニーで朝食を」でのあの黒いドレスも、ジバンシィのものです。

ジョンFケネディの葬儀でもケネディ家の女性たちがジバンシィの喪服を着ていたことでも知られ、多くの人に愛されていました。

1995年にブランドは後任に託しジバンシィは引退を表明。2018年3月に91歳で亡くなります。

 

 

カール・ラガーフェルド  Karl Lagerfeld

1933年9月10日 – 2019年2月19日 没85歳

ドイツ・ハンブルグで生まれたカール・ラガーフェルドは、パリオートクチュール組合が経営する学校にてファッションを学びます。この同級生には、イブ・サンローラン、文化服装学院の小池千枝さんもいたそうです。

その後ピエールバルマン、ジャン・パドゥ、で働き、その後は、クリツィア、シャルル・ジョルダン、ヴァレンティノなどにも所属し、1964年にはクロエと、1982年にシャネルと契約。1971年にココシャネルがなくなり経営が低迷していたシャネルは、カールを招き入れると、結果的に人気と売り上げが回復しました。

2004年には、H&Mともコラボを行ったことも。

カールは、同性愛者であり、パートナーは、ジャック・ドゥ・バッシェール。1951年から1989年のジャックがなくなるまで共に過ごしていたそうです。

2019年2月19日パリ近郊のセーヌで、姉に看取られながら85歳の生涯を遂げました。

 

アズディン・アライア AzzedineAlaïa

1935年2月26日—2017年11月8日)没77歳

ボディコンスタイルの先駆者とも言えるのが、アズディン・アライア

チュニジア出身で、キングオブクリングとまで称され、美しいラインのデザインは、多くの女性たちを虜にしました。

チュニス美術学校に入学。そこで人の形を洞察し彫刻の研究します。妹と洋裁をして学費を賄っていたそうです。卒業後は、洋裁の助手となり、1957年にパリに移ります。ディオールのアトリエで働くも、アルジェリア戦争が勃発し、ディオールを去ることに。その後は。ギラロッシュ、ティエリーミュグレーの元で働き始め、1970年代パリにアトリエを構え、それから20年間もの間、マリーエレーヌドロスチャイルドやルイーズドビルモリン、グレタガルボまで、世界のジェットセッターの顧客を持ちプライベートの服を作っていきます。1980年にはプレタポルテも制作。

ニューヨーク進出のきっかけは、インテリアデザイナーのアンドレプットマンが、アライアのコートを持ってマジソンアヴェニューを歩いていると、バーグドルフグッドマンのバイヤーに止められ、アメリカ進出の快進撃が始まりました。ニューヨークとビバリーヒルズにブティックがオープン。

グレイス・ジョーンズは映画『007美しき獲物』で、アライアを着用し、ティナターナー、やラクエルウェルチ、マドンナ、ジャネットジャクソン、ブリジット・ニールセン、ナオミ・キャンベル、タチアナ・ソロッコ、シャキラなど世界のセレブたちがアライアの服を着たがりました。それどころか、スーパーモデルは、他のショーをキャンセルしてまでも、アライアのショーを優先していたそうです。アライアは、生地の重さやバランス、巧みに生地を操る達人で、すでに人気デザイナーであるアライアにもかかわらず、睡眠時かん2時間以上は稀なほど、自らパターンを引き針を手に取り、こだわりを持ってていたそうです。

 

 

エマニュエル・ウンガロ Emanuel Ungaro

1933年2月13日 – 2019年12月21日 没86歳

イタリア人の両親ですが、フランス生まれのウンガロは、1956年にバレンシアガやクレージュを経て、1965年にパリにウンガロをオープン。

1996年にフェラガモ社をパートナーシップを組み、2004年からはファッション界からは退き、レーベルを売却、療養していたそうです。2019年86歳で生涯を閉じました。

 

高田 賢三

1939年2月27日 – 2020年10月4日 没81歳

文化服装学院の出身で、同期生には、コシノジュンコさん、ピンクハウスの金子功さんなど、ニコルの松田光弘さんなど、日本のファッション界をリードする人材が顔を揃え、のちに「花の9期生」と呼ばれていたそうです。

高田健三さんは、文化服装学院を卒業後、三愛を経て、1965年にフランスに渡り、メーカーに勤務、1970年にパリ2区に「ジャングル・ジャップ(現ケンゾー)」をオープンし、作品が「ELLE」の表紙を飾るまで注目を集め、パリ・コレクションも成功。世界のファッションブランドとして確立します。

2020年9月、新型コロナウィルスに感染し闘病中でしたが、合併症により10月4日亡くなってしまいました。

1984年にフランス芸術文化勲章、1999年には、紫綬褒章を授与されています。

2020年 老舗の姿が消え行くニューヨークの街 そして復活に向けて

 

 

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NYwonder
erika.sawae@gmail.com

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